吉田璋也の世界 Syoya YOSHIDA Design collection

鳥取の新作民藝運動の指導者である
吉田璋也のデザイン集

  • お知らせ
  • このサイトについて
  • 吉田璋也とは
  • デザイン
  • 書籍
  • お問い合わせ

ホーム > 吉田璋也とは

吉田璋也とは

  • 吉田璋也の七つの顔
  • デザイン年譜
  • 吉田璋也年譜

吉田璋也

吉田 璋也 明治31年(1898)〜昭和47年(1972)

吉田璋也は明治31年(1898)鳥取市に生まれ、新潟医学専門学校を卒業し医師になりました。学生時代より白樺派の文学芸術活動に憧れ、校友らと共に雑誌『アダム』を創刊し、白樺派の柳宗悦の知遇を得て民藝運動に参加します。柳宗悦は無名の工人が作った工芸の美を「民藝」と名付け、大正15年(1926)『日本民藝美術館設立趣意書』を発表し民藝品の本格的に民藝の蒐集を始め、著作等でその思想を広めてゆきました。

吉田璋也は柳宗悦が見出した民藝の美を現代の日常の生活に取り入れることを願い、昭和6年(1931)故郷で医院を開業すると同時に新たな事業を起します。日常の生活雑器を作っていた牛ノ戸窯で、その伝統を生かしながら自ら新しくデザインしたものを指導し製作させ、更に陶芸のみならず木工・金工・竹工・染織・和紙など多岐に渡る工人を指導し、デザイン・生産・流通・販売・消費に至る組織を作り上げたのです。工人の集団として「鳥取民藝協団」を、販売組織として「たくみ工芸店」等を次々と設立しましたが、これらの先駆的な活動は後になって新作民藝運動と呼ばれ、吉田璋也は「民藝のプロデューサー」を自認するに至ります。

吉田璋也の新作民藝運動を振り返って見ると、新たな生活文化を提案し普及するという幅広い意味でのデザイン運動でもありました。昭和47年(1972)に逝去するまで「美による社会改革」を求めて民藝運動に生涯をささげた一生でした。


吉田璋也の七つの顔

吉田璋也の新作民藝運動とそのデザインは単に造形の範疇みにとどまるものではありませんでした。「民藝のプロデューサー」を自認した吉田璋也は多面的に活動した人物で、他の分野と水平的に融合しながら展開してゆく手法で、新作民藝とそのデザインの幅広い展開をはかったのです。その7つの顔を紹介します。

1.

大正10年(1921)新潟医学専門学校を卒業し、昭和6年(1931)故郷鳥取で耳鼻咽喉科医院を開業しました。民藝運動と共に、昭和45年(1970)72歳で廃業するまで現役の医師として医療活動に従事しました。昭和27年(1952)吉田医院の建築に当たっては自ら建築と家具の設計をしています。

吉田医院・正面

吉田医院・玄関階段

吉田医院・診察室

2.デザイナー

染分皿(昭和6年)

伸縮式木製電気スタンド(昭和7年)

昭和6年(1931)牛ノ戸窯でその伝統的技法を用いながら現代の生活に用いる食器をデザインしました。吉田璋也のデザインは木工・金工・竹工・染織・和紙に及びます。吉田璋也は当初から工芸の分野におけるデザインの必要性を意識していました。民藝のプロデューサーの資格として「自らデザインする力」を上げています。

3.事業家

たくみ工芸店(鳥取・昭和7年)

たくみ工芸店(西銀座・昭和8年)

民藝品を作っても流通・販売して生活者に届けなければなりません。民藝品の普及活動は新たな生産にもつながります。昭和7年(1932)鳥取市に「たくみ工芸店」が誕生し、翌年は販路を求めて東京銀座に出店します。銀座の「たくみ」は鳥取の新作民藝のみならず、日本全国の民藝品の流通機能も担いました。

4.教育者

鳥取民藝美術館(第1期・昭和24年)

鳥取民藝美術館(第2期・昭和25年)

鳥取民藝美術館(第4期・昭和36年)

昭和24年(1949)鳥取民藝美術館を開設しました。その開設の目的は一般の来館者に民藝の美を伝えるだけではありませんでした。何が美しいものなのか、工人達に民藝の美の基準を示し、その手本となるよう収集の方針を定めました。鳥取民藝美術館は市民教育・工人教育の場だったのです。

鳥取民藝美術館(内観・第4期・昭和36年)

たくみ割烹店(外観・昭和37年)

たくみ割烹店(内観・昭和37年)

たくみ割烹店の郷土料理

たくみ割烹店の翻案料理

5.プロモーター

昭和37年(1962)民藝の器を用いて郷土料理を提供する「たくみ割烹店」を開店しました。吉田璋也はこれを民藝美術館の延長として「生活的美術館」と呼びました。器を美術館で展示するだけではなく、その器に郷土の料理を盛って生活の中で美しく用いることを市民に示したのです。

6.文化財保護活動家

吉田璋也は昭和29年(1954)川上貞夫らと鳥取文化財協会を設立し、地域にある自然・歴史などの貴重な文化財の保存運動を起しました。その活動は、鳥取砂丘の天然記念物指定、箕浦家武家門・鳥取城跡・仁風閣の保存、湖山池の自然と景観の保護など多岐に渡ります。

『民芸入門』(昭和44年)

『民芸入門』英訳版(昭和46年)

7.著述家

自らの民藝運動の軌跡をまとめた『「たくみ」と新作民芸』、民藝運動のあるべき姿を伝えた『民芸運動私見』、民藝の手引き書としてまとめた『民芸入門』及び同書の英訳など数多くの著作を通して、民藝の思想と運動の普及に努めました。

“A stretcher with a wheel” (Yurin Tanka), 1940

『「たくみ」と新作民藝』(昭和38年)

『民藝運動私見』(昭和41年)

『鳥取の童子地蔵堂』(昭和44年)

『生活的美術館』(昭和45年)


吉田璋也 デザイン年譜


吉田璋也年譜

明治31年 1月17日、鳥取市にて生れる
大正6年 新潟医学専門学校に入学
大正9年 式場隆三郎等と柳宗悦を訪問
大正10年 新潟医学専門学校を卒業
大正13年 河井寛次郎と出会う
大正15年 柳宗悦らが民藝運動を起す
昭和2年 京都帝国大学より医学博士号を受ける
昭和3年 奈良市今西家書院に住み陶芸・家具を試作する
昭和7年 吉田璋也を囲む鳥取の工人
昭和6年 鳥取で吉田医院を開業  新作民藝運動を開始する
昭和7年 鳥取市に「たくみ工芸店」を開店

An etching by Bernard Leach,a memorable item of Yanagi and Yoshida’s first encounter

大正9年
柳兼子音楽会会場にて
後列左より、柳宗悦、式場隆三郎、吉田璋也
前列右、柳兼子

昭和6年
牛ノ戸窯にて
後列左より、柳宗悦、吉田璋也
前列、小林秀晴

昭和8年 東京に「たくみ工芸店東京支店」を開店
昭和13年 軍医として中国北部に応召
昭和15年 除隊後は北京に居を構え中国で新作民藝運動を起す
昭和18年 「華北生活工芸店」を北京で開店
昭和20年 終戦後京都に引き揚げる
昭和22年 鳥取に帰郷
昭和23年 鳥取市にて吉田医院を再開
昭和24年 鳥取民藝協団を組織  鳥取民藝美術館を創設(第1期)
昭和25年 鳥取民藝美術館を新築(第2期)
昭和27年 鳥取大火にて医院を焼失し再建
昭和29年 「鳥取文化財協会」を設立し理事となる 文化財や自然環境の保護活動を開始
昭和30年 「民藝のプロデューサー」を自認する
昭和32年 鳥取民藝美術館を改築(第3期)
昭和33年 「新作民藝品監督生産者」を著わす
昭和36年 鳥取民藝美術館を増築(第4期)
昭和37年 「財団法人鳥取民芸美術館」を設立 「たくみ割烹店」(生活的美術館)を開店
昭和38年 『「たくみ」と新作民芸』を刊行
昭和39年 湖山池湖畔に「阿弥陀堂」を建築
昭和41年 『民芸運動私見』を刊行
昭和44年 『民芸入門』を刊行
昭和45年 医師を廃業
昭和47年 9月13日、逝去
昭和49年 鳥取市名誉市民の称号を受ける
昭和56年 鳥取県政功労者表彰を受ける
平成10年 生誕100年
『吉田璋也-民芸のプロデューサー』を刊行
平成13年 『吉田璋也のものづくり』を刊行
平成24年 『Next 80 Years – Shoya YOSHIDA』展を世界デザインキャピタル・イン・ヘルシンキ(フィンランド)で開催